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明治・大正・昭和を生きた広島の鋳物屋の回想録(続)

 前回の続きです。大正中期から戦後まもなくにかけての記述です。

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 大正七年大戦終るや成金も一朝の夢と化し栄枯の境、無常の感深く倒産破産続出して、業界も寒風愁落の状言語に絶するものがあつた。これから戦後の業界沈滞期に入つた。然し父は良く堅を持し好況時と雖も奢らず、孜々とし業に励み大正十年に土地を買求め、同十一年には工場と自宅を建て、永い間の念願を果して、土壌期より発芽期を迎えた。思うに苦節十二年、嵐を凌ぎ霜に耐え、艱苦欠乏の過去であつた。

 戦後の不況は続き「枯すゝき」「籠の鳥」の哀調歌が流行し、労働問題も益々活潑になり、国民の思想にも変動期が来たので思索の線と誤まらぬ様大詔が喚発された。私の工場でも仕事が少なくなり苦しい日が続いた。

 色々考えた末何か安定した量産品を求め、父には無断で大阪に出た。そこで「スチームラヂエータ」の鋳物工場を見て、これを何とかものにしようと思い、その工場に勤めることにした所、父がきつく立腹し三カ月目に連れ戻された。当時の家族制度では長男が親元を離れることは御法度だったのである。

 あれこれする内に昭和六年満洲事変が起り、軍部より非常時の声を聞く様になり、鉄鋼界も活気を取戻し、町に「空にゃ今日もアドバルン」の唄も出て、中間景気と呼んでいた。その頃から中野工業の精米機の発注が纏り受註も安定し運営も楽になった。

 昭和十一年の末父が脳溢血で倒れ八ケ月病臥の身となつたので、私が経営を引継ぐ事になつた。然し間もなく同十二年日支事変となり応召されたが同十四年帰郷した。

 当時鶴見町は文教の町であり、周囲の環境からして工場適地ではないため、現在の市外府中町に新工場を建設し元の鶴見町に父を残し私のみが移転操業することになつたのが昭和十四年八月で、丁度父が創業したと同じく私が三十九才の時であつた。

 戦争は益々拡大し大東亜戦争に突入し、物資の統制は益々厳しく、工員は減少したが運営には差支えなかつた。然し戦いは憂愁の色が濃くなり、昭和二十年三月には再び召集を受け、私を始め九大在学中の弟は学徒動員に、長男は海兵に行き、残るは病後の老父のみとなつた。

 「若者は戦の庭にたち出でゝ翁や一人山田守るらん」の御製拝誦そのものであつた。妹よりの便りに「今宵また子女に囲まれ取る夕げ父は淋しく箸をとるなり」を読み故郷をしのんで暗涙にむせんだ時もあつた。

 終戦となるや直ちに帰郷したが、癈墟と化した原野の広島では、人々は虚無状態であり、昼夜の別なく、あの丘この堤で火葬の臭気鼻をつく有様で、死すること帰するが如く悲しむ力もなく、茫然として家族自らが焼いていた。原爆により屋台骨のみ残つた工場を、残つた工員とかき集め、整理復旧に急ぎ、翌九月には戦後第一回の吹きをした。仕事は西条方面の農機具、大竹方面の船舶の修理品でどうにか運営する事が出来た。

 同業者の殆んどは仕事をする気力も見られずブラゝゝしていたが、私が仕事を始めたのを見て、年末頃からボツゝゝ操業する者が出て来た。その内に精米機が再び脚光を浴びて来る様になり、工場も急に忙しくなつて来た。

 昭和二十一年三月復員した渡部君が入社し私の片腕となつて活躍して呉れる事になつた。当時は原材料は軍の放出品で潤沢であつたが、コークスがなくて鋳物が吹けない時代であつた。しかし私の工場は石炭庁の指定工場として炭車部品を造つていたので、優先配給を受けていたので二日吹を持続することが出来た。

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「空にゃ今日もアドバルン」の唄とは↓ですね。歌っている美ち奴の弟がビートたけしの師匠である深見千三郎であることを最近、知りました。

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Author:tokioikomu
ドキュメンタリー映画『時を鋳込む』(青原さとし監督、広島県鋳物工業協同組合製作)の企画に携わった者です。1人でも多くの方々がこの作品を鑑賞することを祈っています。

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